年末。今年は大きな祭りやイベントに、仕事を押しやって参加して来た。その参加態勢に一心に力を発揮してくれた多くの人たちに心から感謝だ。
諏訪の御柱奉納太鼓、飯田のお練りまつり、それに準じた吉祥開運熊手踊り、宝舞の創出。
どれも、裏方で力を発揮してくれた人たちがいてこそできたこと。
ところが・・・
僕の心はいつもどこかで僕にこう言っていた。
「もっとできる、もっと創作とアイデアが必要だ。」
創作とアイデアには、それを生み出す意志と、環境と、それを大切にする人の心が必要だ。
その環境づくりと人の心の組み立ては、今年、大きく停滞した。それどころではなかったと言おうか。
急いては、事を仕損じる。しかし、人生のコツは、機敏であること。
来年のマイテーマは、機敏とストイックと、バリ根(ばりこん:バリバリ取り組む根性)と、新世界への挑戦だ。
新しい施設に移る母と、千葉に一人暮らす父と、心のベトナムを戦いぬいている弟。
名古屋で生き抜いている娘と、それぞれの体調を守りつつ前向きに生きている息子とその母さん。
人はバラバラというけれど、そこに感じているささやかな絆は、当事者にしか実感できないだろう。
すべてが、僕の力になっている。
急いては事を仕損じる。何をやりたいのか、どうすればできるのか、その事を心から楽しんで生きる以外に道はない。
2010/12/28
2010/12/24
傷つくことも絶望も好機に変えてこそ人生。
己の不孝も不運も、やがて来る春を待つ冬に同じ。歩くことをやめてはならない。愛することを絶やしてはならない。すべての出来事は宇宙の意志、神々のシナリオ。まっすぐに、そしてその時その時を楽しみ、ありがとうと念じながら生きていくことをただひたすらに…。
今日あたりから雪。雪の夜だからこそ、窓辺の明かりが愛おしい。
今日あたりから雪。雪の夜だからこそ、窓辺の明かりが愛おしい。
故郷
千葉県市川市。それが僕の生まれ育った土地。今は父が一人、団地で暮らしている故郷。3歳までは東京の葛飾区高砂のアパートに育った僕は、体が病弱だったゆえに、担当の小児科医から勧められて両親が市川に引っ越した。理由あって母は長野県の病院にいる。来年の春には伊那谷の特別養護老人ホームに入所を希望、部屋が空くまで老人介護保険施設を3ヶ月ごと転々とする。
要介護5で半身不随の母を、車椅子でもいい、温泉に連れて行ってやることが今のところの小さな夢だ。
千葉には18年間居た。その後、約3年間は横浜、1年東京渋谷区。西新宿の高層ビル街が出来始めていた時だ。来年で長野県に移り住んでから26年目になる。1984年5月1日、新宿のメーデーの行列の人波を押し分けて乗り込んだ高速バス。
いつの時も未来は混沌としていた。また、帰るべき故郷は希薄だった。
長野県では祭りや芸能を通して人を学んだ。なんとか和太鼓奏者として生きていられるのも、長野県への旅立ちがあったからだと思う。
父は酒が好きで、僕が様子を見に市川へ行くと、必ず回転寿司へ行き、3合ほど冷酒を飲み、ご機嫌となる。話しを黙って頷きながら聞く。父は東京、本所の生まれ。話の端々にこぼれる昭和の人情と戦争の傷痕。そして、今の時代に対する愚痴と悔恨だ。
時代は東京タワーからスカイツリーへ。
親父、時代はどんなに変わっても、あなたがこの僕を一生懸命育ててくれた事実は変わることはない。嘆かず、黙って空を見上げて、今の幸せをかみしめようよ。かみしめるだけ、故郷の空の色が心に色濃く染まるから。
あなたのおかげで僕の太鼓の音は響くのだから。僕の命続く限り、あなたの魂は僕の響きに染みているのだから。やがて、僕もあなたと同じ様な一人暮らしの寂しさをさらに思い知るに違いない。でも、その時にはせめて、伝え続けてきた太鼓の旅の思い出に抱かれていたい。
要介護5で半身不随の母を、車椅子でもいい、温泉に連れて行ってやることが今のところの小さな夢だ。
千葉には18年間居た。その後、約3年間は横浜、1年東京渋谷区。西新宿の高層ビル街が出来始めていた時だ。来年で長野県に移り住んでから26年目になる。1984年5月1日、新宿のメーデーの行列の人波を押し分けて乗り込んだ高速バス。
いつの時も未来は混沌としていた。また、帰るべき故郷は希薄だった。
長野県では祭りや芸能を通して人を学んだ。なんとか和太鼓奏者として生きていられるのも、長野県への旅立ちがあったからだと思う。
父は酒が好きで、僕が様子を見に市川へ行くと、必ず回転寿司へ行き、3合ほど冷酒を飲み、ご機嫌となる。話しを黙って頷きながら聞く。父は東京、本所の生まれ。話の端々にこぼれる昭和の人情と戦争の傷痕。そして、今の時代に対する愚痴と悔恨だ。
時代は東京タワーからスカイツリーへ。
親父、時代はどんなに変わっても、あなたがこの僕を一生懸命育ててくれた事実は変わることはない。嘆かず、黙って空を見上げて、今の幸せをかみしめようよ。かみしめるだけ、故郷の空の色が心に色濃く染まるから。
あなたのおかげで僕の太鼓の音は響くのだから。僕の命続く限り、あなたの魂は僕の響きに染みているのだから。やがて、僕もあなたと同じ様な一人暮らしの寂しさをさらに思い知るに違いない。でも、その時にはせめて、伝え続けてきた太鼓の旅の思い出に抱かれていたい。
2010/12/18
台北、五股五福村、2010年11月13日、雨の中の結婚式 ③
雨は一層降りしきり、70年前の古式にのっとった結婚式の行列はそれでも五福村を進んでいく。メイン通りではたくさんの傘が行列を見送り、馬上のバラアを讃え、神輿の中の美佳さんを楽しみにしている様子。
神輿の先導をしているチャッパの僕と担ぎ桶胴太鼓の七瀬はずぶ濡れだったが、神輿を担いでいる若者の苦渋の表情を見ると、なんとか励ましてやりたい思いが先になり、晴れやかな表情で囃し続けた。
チャッパを持つ手がかじかみ、幾度かチャッパを路上に落とす。金子竜太郎さんのオリジナルモデルを先行予約で購入した大切な楽器であったので、ヒヤリとしながら持ち直し再び打ち合わせる。このチャッパはとても具合がいい。今まで購入した普及品のチャッパの2倍は響きの波長が長い。金子さんも、自分のモデルが、台湾という海外で古式にのっとった花嫁行列の先導をつ務めているとは知るまい。その響きが、五福村にしみているなんて・・・。見ると七瀬もややつらそうだったので「おい、交代するか?」と声をかけると「いえ、阿齢(アリン)が、先生が(僕のこと)チャッパで、私が桶胴と指示したので頑張ります。」と笑顔で答えた。
僕らの前は、バラアの乗っている馬・・・。油断して近づきすぎれば「地獄のそうべい」のように蹴り飛ばされる危険もある。ところが・・・蹴り飛ばされることよりも、街中で、それは立派な糞を目の前で出されることの方があぶなかった。
2004年8月、飯田市の人形劇フェス関係で、宝塚歌劇団OG(榛名由梨さん、但馬久美さん代表)16人が、台北の國父紀念館で開催した「夢の軌跡」というコンサートの第一部と第二部の幕間に大太鼓一人打ち「命導」を演奏したのが、僕の台湾との関わり始め。
あれから6年が過ぎる中、台北慶和館との出会いをきっかけに、台湾の風土や民俗の中へ深く関われる機会に恵まれながら今日まで来た。
それを単なる観光の一つではなく、僕が地方歌舞団で、舞台芸能の研鑚を続けていたと同様に、この台北でも自分たちの芸能に磨きをかけ続けていた人々との出会いとして受け止められたことに感謝している。彼らが、僕や御花泉を大切にしている思いは並々ならぬものだ。
雨降りしきる中、チャッパを打ち合わせながら、6年間の様々な出来事が頭の中を廻っていた。
台湾人と日本人の台湾古式結婚式の先導役として、日本のチャッパを打ち鳴らす自分。
めぐってきている小さな運命が嬉しい。
日本のマスメディアには一切関係ない小さな活動だが、培われる人と人の絆は、僕の大きな宝だ。
派手な1回きりのパフォーマンスではなく、こつこつと地道に重ね、息長く、人様や地域のために続ける活動こそを見失ってはならない。
人の目から見た自分の活動という視点ではなく、あくまで自分の視点から見た人生の深さ、面白さを追及しなければ、僕の太鼓の響きはなまくらになるだろう。
この僕に宇宙がくれた唯一のものは、自分というものを120パーセント込めて打ち出せる太鼓の響き、裸の魂の舞台表現と肝に銘じて、決して失わないよう見据えていかなければならない。
年を重ねるほど、横を広げることよりも縦を掘ることに精力を尽くしたいと思う。
花嫁行列は、およそ90分ほどの時間で終着点に着いた。
ホッとしている間もなく、慶和館メンバーは、すぐに台北市中の青年音楽中心へ演奏に出かける。僕も濡れた衣装のまま、移動する車へ飛び込んだ。
芸能で本気で食べていくことを腹に決めている人間にとって、しのごの言っている世界ではないのだ。経験を積めば、いくらでも手を抜くことは可能なのかもしれない。それらしく見せ、手ごろなところで妥協し、反則ギリギリのパフォーマンスを入れて、観客の注意をひく・・・。
でも、僕は知っている。演奏者が、どんなにうまくやりおおせたと思っていても、観客の中には、必ずその演奏の質を見抜いている人がいて、心の中で「NO」を示していることを。
その「NO」は、見えない力で広がっていき、やがて、観客は騙されなくなるのだ。
もっとも、そうした器用さを発揮できる演奏者を羨ましくも思えるが・・・僕にはできない芸当だから・・・
来年、台湾は建国100年を迎えるそうだ。台湾という地域が国として認められていないという事実は置いておきながら、2011年の11月10日から16日まで、台北の萬華区にある青山宮というお寺(台北慶和館がお祭りと芸能をつかさどっているお寺である)の祭りに参加する予定だ。
このときにも、研鑚を重ねた芸で臨みたい。
僕も、また、御花泉も、研鑚という言葉を忘れては、舞台に立てないという出発点を忘れてはならない。
神輿の先導をしているチャッパの僕と担ぎ桶胴太鼓の七瀬はずぶ濡れだったが、神輿を担いでいる若者の苦渋の表情を見ると、なんとか励ましてやりたい思いが先になり、晴れやかな表情で囃し続けた。
チャッパを持つ手がかじかみ、幾度かチャッパを路上に落とす。金子竜太郎さんのオリジナルモデルを先行予約で購入した大切な楽器であったので、ヒヤリとしながら持ち直し再び打ち合わせる。このチャッパはとても具合がいい。今まで購入した普及品のチャッパの2倍は響きの波長が長い。金子さんも、自分のモデルが、台湾という海外で古式にのっとった花嫁行列の先導をつ務めているとは知るまい。その響きが、五福村にしみているなんて・・・。見ると七瀬もややつらそうだったので「おい、交代するか?」と声をかけると「いえ、阿齢(アリン)が、先生が(僕のこと)チャッパで、私が桶胴と指示したので頑張ります。」と笑顔で答えた。
僕らの前は、バラアの乗っている馬・・・。油断して近づきすぎれば「地獄のそうべい」のように蹴り飛ばされる危険もある。ところが・・・蹴り飛ばされることよりも、街中で、それは立派な糞を目の前で出されることの方があぶなかった。
2004年8月、飯田市の人形劇フェス関係で、宝塚歌劇団OG(榛名由梨さん、但馬久美さん代表)16人が、台北の國父紀念館で開催した「夢の軌跡」というコンサートの第一部と第二部の幕間に大太鼓一人打ち「命導」を演奏したのが、僕の台湾との関わり始め。
あれから6年が過ぎる中、台北慶和館との出会いをきっかけに、台湾の風土や民俗の中へ深く関われる機会に恵まれながら今日まで来た。
それを単なる観光の一つではなく、僕が地方歌舞団で、舞台芸能の研鑚を続けていたと同様に、この台北でも自分たちの芸能に磨きをかけ続けていた人々との出会いとして受け止められたことに感謝している。彼らが、僕や御花泉を大切にしている思いは並々ならぬものだ。
雨降りしきる中、チャッパを打ち合わせながら、6年間の様々な出来事が頭の中を廻っていた。
台湾人と日本人の台湾古式結婚式の先導役として、日本のチャッパを打ち鳴らす自分。
めぐってきている小さな運命が嬉しい。
日本のマスメディアには一切関係ない小さな活動だが、培われる人と人の絆は、僕の大きな宝だ。
派手な1回きりのパフォーマンスではなく、こつこつと地道に重ね、息長く、人様や地域のために続ける活動こそを見失ってはならない。
人の目から見た自分の活動という視点ではなく、あくまで自分の視点から見た人生の深さ、面白さを追及しなければ、僕の太鼓の響きはなまくらになるだろう。
この僕に宇宙がくれた唯一のものは、自分というものを120パーセント込めて打ち出せる太鼓の響き、裸の魂の舞台表現と肝に銘じて、決して失わないよう見据えていかなければならない。
年を重ねるほど、横を広げることよりも縦を掘ることに精力を尽くしたいと思う。
花嫁行列は、およそ90分ほどの時間で終着点に着いた。
ホッとしている間もなく、慶和館メンバーは、すぐに台北市中の青年音楽中心へ演奏に出かける。僕も濡れた衣装のまま、移動する車へ飛び込んだ。
芸能で本気で食べていくことを腹に決めている人間にとって、しのごの言っている世界ではないのだ。経験を積めば、いくらでも手を抜くことは可能なのかもしれない。それらしく見せ、手ごろなところで妥協し、反則ギリギリのパフォーマンスを入れて、観客の注意をひく・・・。
でも、僕は知っている。演奏者が、どんなにうまくやりおおせたと思っていても、観客の中には、必ずその演奏の質を見抜いている人がいて、心の中で「NO」を示していることを。
その「NO」は、見えない力で広がっていき、やがて、観客は騙されなくなるのだ。
もっとも、そうした器用さを発揮できる演奏者を羨ましくも思えるが・・・僕にはできない芸当だから・・・
来年、台湾は建国100年を迎えるそうだ。台湾という地域が国として認められていないという事実は置いておきながら、2011年の11月10日から16日まで、台北の萬華区にある青山宮というお寺(台北慶和館がお祭りと芸能をつかさどっているお寺である)の祭りに参加する予定だ。
このときにも、研鑚を重ねた芸で臨みたい。
僕も、また、御花泉も、研鑚という言葉を忘れては、舞台に立てないという出発点を忘れてはならない。
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